「反転授業の研究」物語 第1話 それは東日本大震災から始まった

「反転授業の研究」の田原真人です。

このグループが始まってから今までのストーリーを連載していくことで、新しく入られた方とも物語を共有していきたいと思います。

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第1話 それは東日本大震災から始まった

反転授業と東日本大震災とは、全く関係ないことのように思われるかもしれませんが、僕の中では、これらは一続きの物語として繋がっています。

 

しかし、震災のことを考えるのはとても苦しく、このことについて書けるようになるまでに4年間かかりました。

 

「反転授業の研究」のみなさんと一緒に未来を思い描けるようになってきたことで、ようやく過去と向かい合うことができるようになり、言語化することができました。

 

2011年3月11日のあの時、僕は、仙台市内の用事を済ませ、車で自宅に帰っている途中でした。

 

今から広瀬川にかかる橋を渡ろうかというときに、大きな揺れを感じ車を停止させました。

 

しばらくして揺れが収まり、恐る恐る橋を渡ると、見慣れた景色は一変していました。

 

道路は大きく陥没し、ガードレールは内側に折れ曲がってほぼ水平になっていました。窓ガラスが飛び散って散乱していました。

 

陥没した道路を、穴に落ちないようにゆっくりと蛇行して進み、娘の保育所になんとかたどり着くと、園児たちは広間に集まって布団をかぶって身を寄せ合っていました。その中に娘を見つけることができてほっとしました。

 

自宅に戻ると家の中はめちゃくちゃで、冷蔵庫や食器洗器が倒れて一面水浸しになり、割れた食器やガラスが散乱していました。

 

次の日、インターネットがつながり、原発事故が起こったことを知りました。その後は、情報収集と決断の繰り返しに明け暮れる日々が何カ月も続きました。

 

可能な限りの情報を集めて、自分と家族にとって良い決断は何かということを毎日考え続けました。

 

「ただちに影響はありません」に象徴される報道に不信感が募り、自分を取り巻いていた社会システムに対する信頼が大きく揺らぎました。

 

自分自身の形成に大きな影響を与えてきた教育システムや、自分の中の日本人マインドセットにも批判的な目を向けるようになりました。

 

10年以上勤めていた河合塾を辞め、オンラインでの仕事だけで生計を立てることにしました。

 

このままでいいはずはない。
でも、どうしたらよいのか分からない。

 

そういう人生のカオスの中で出会ったのが「反転授業」というキーワードでした。

 

自分の中にはカオスから抜け出すための答はなく、外側に新しいものを探しにいかないといけないと思いました。

 

それまで、ほとんど一人で仕事をしてきた僕が、一緒に学ぶ仲間を探そうと思ったのは、一人ではこのカオスの中から抜け出せそうにないと思ったからです。

 

そして、友人数名に声をかけて「反転授業の研究」を作りました。

4-5名で、オンラインルームに集まり、読書会を始めました。

 

今、振り返ってみると、このグループが誕生し、大きくなっていった背景には、震災後に新たに信頼し合えるコミュニティを作って再生への道筋を作っていこうという人たちの思いがあったと思います。

 

震災後、多くのコミュニティが新たに生まれましたが、「反転授業の研究」もその中の1つだということに気づきました。

 

そこでは、今までリーダーシップを取ることのなかった普通の人が行動を始めました。
僕も、震災前までは、グループになじまない「行動しない人」でした。

 

このままじゃいけない。
でも、どうしたらいいかわからない。

 

という共通の思いが、このグループの学び合いのエネルギーになっているのではないかと思います。

 

それを、原点として書き留めておこうと思います。

(第2話へ続く)

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