「教えない授業」が目指すものとは何か?

反転授業の研究代表の田原真人です。

今日は、『なぜ「教えない授業」が学力を伸ばすのか』を読んで感じたことを書いてみたいと思います。

私が東京都立両国高校を訪問し、著者の山本崇雄さんの英語の授業を見学したのは2014年の12月のことです。

新聞で両国高校の取り組みが紹介され関心を持ち、一度、見学させていただこうと思ったのです。

見学したいと思った理由は、もう一つありました。両国高校は私の母校であり、その母校が新しい学びのスタイルを取り入れているということで、ぜひともこの目で見て見たかったのです。

実際に授業を見学し、両国高校の先生方とお話しする中で、根底にある想いの部分で共振、共鳴してしまい、次のブログ記事を一気に書き上げました。

都立両国高校を見学して(上)― フォークダンスのように生徒が動く英語の授業

都立両国高校を見学して(下)― 教師の主体的な学びが生徒の主体的な学びを促す

山本さんから、「短い滞在期間で、こんなに理解してもらえるとは・・」というありがたいコメントをいただいたのですが、その理由は、私自身が考えていることや、取り組んでいることと、根底にある想いが共通していたので、そこで起こっている氷山の一角から、水面下の部分を想像できてしまったのです。

山本さんの新著、『なぜ「教えない授業」が学力の伸ばすのか』は、山本さんの授業に対する考えをまとめたものです。いわば「教えない授業」の舞台裏を明かしている本です。

授業見学の後、私自身も「教えない授業」に本格的に取り組むようになったこともあり、今回、本を読みながら、山本さんの言葉の一つ一つによって、この数年間で自分が取り組んできた様々なことが想起され、新たな気づきとともにそれらが言語化されていくという体験をしました。

この記事では、客観的に山本さんの本を紹介するというよりも、山本さんの本を読んだことで私の中に起こった化学反応について書きたいと思います。それによって、「教えない授業」の背後にある考えが、より多くの方に伝われば幸いです。

それは、震災からはじまった

山本さんの「教えない授業」と、私の「反転授業の研究」の活動の共通点はたくさんありますが、出発点になるのは、どちらも東日本大震災がきっかけとなって始まったものだということです。

私自身の場合は、震災そのものも私の人生に大きな変化を与えましたが、それにも増して、「直ちに影響はありません」「福島は完全にコントロールできている」に代表される欺瞞的な言葉の数々がまかり通っていくことに大きなショックを受けたのです。

どのようにして、このような社会ができてきたのかという問いに導かれて考えていくうちに、日本は「立場主義」の社会であり、大人になっていく過程で、自分らしく生きることを手放し、立場に応じて適切な行動をする社会適応インターフェースを身につけていくように外から条件付けられているのではないかと考えるようになりました。

未来学者のアルビン・トフラーは、『第3の波』の中で、大衆教育は、時間厳守、服従、反復作業の3つを叩き込むものだと看破しています。自然と共に生きていた農民を工場労働者として育成するために、学力テストによる序列化と、レールから外れると生きていけないという恐れをアメとムチとして使い、外発的動機付けによって子どもたちを規格化してきたのです。それは、日本においては、その方法が戦前の国民教育に応用されました。戦後も、形を変えて、子どもたちを規格化していく教育システムは作動し続け、その結果として、自分とは切り離され、立場に従って行動する震災後の状況が生まれているのだと思いました。

このような考えは、予備校講師として、まさにその教育システムを支えるべく働いてきた自分自身の存在を脅かすものでした。今まで使っていた叱咤激励の言葉を使うことができなくなってしまいました。発信力が落ちたことで、経営しているネット予備校の収益も落ち込んでいきました。今までと異なるパラダイムへとシフトするためには、ぐーっと暗闇の中に潜っていく必要があると感じました。

その結果、たどり着いたのが、「反転授業」であり、「教えない授業」だったのです。

私にとっての「教えない授業」の役割は、安冨歩さんの『生きるための論語』に出てくる<学習>という言葉を使うとうまく説明できます。安冨さんは、学習を次のように説明します。

「学」という段階では、受け取ったものが何なのか、学ぶ者にはまだ意識化されていない。より正確に言えば、細部に意識が集中してしまうことによって、全体が無意識化されてしまっている。ここには余計なものが染みこんでおり、この行為によって魂は多かれ少なかれ、呪縛されている。

それがある時、「習」によって完全に身体化される。すなわち、細部が身体化され、無意識化されることによって、逆に全体が意識化され、「ああこれか」と分かるのである。そうなることによって、不必要なもの、余計なものは排除される。こうして呪縛から抜け出したときに、人は学んだことを自由に駆使できるようになり、喜びを感じる。

「学」のプロセスに偏った教育をしていくと、子どもの魂は呪縛されていきます。その結果、魂の上に蓋がされ、社会適応のためのインターフェースが構築されていくのだと思います。

私の「教えない授業」では、「学」は動画で各自が学べるようにし、集まって学ぶときには「習」のプロセスを中心に行います。

つまり、「魂の脱植民地化」を促していくのが、私の「教えない授業」です。

震災後、あれ程のことがあったのにもかかわらず、何事もなかったのかのように日常が進んでいくことに、なんとも言えない孤独を感じました。しかし、5年が経ち、震災を受け止めて変化を起こしている人たちが確実に存在していることに大きな勇気をもらっています。

山本さんは、次のような言葉を書いています。

「人間には、ゼロからスタートしなければならないときが来る。教師がいなくても学び続ける子どもたちを育てなければならない。」

震災を通して私が感じたことと、山本さんが感じたことは、もちろん異なるはずです。

でも、山本さんが、震災を受け止めて、行動を始めた数少ない人の1人であるということに、感謝のような気持ちを感じています。

学びのフラクタル構造

教えるのを止めてから、私の存在価値は何なのだろうかということを考えるようになりました。

予備校講師時代には、間違いなく「田原の物理講義」という商品を提供していたのです。

知的好奇心をくすぐり、分かりやすく、成績も上がる・・・という講義こそが、私が提供しているものでした。

講師と生徒との間には舞台の上と下という区切りがあり、舞台の上で演じる役者と、それを見て楽しむ観客という役割分担がありました。

しかし、舞台から同じ場に下りていったとき、そこに役割を隔てるものは無くなったように感じました。

1人の人間として、正直に向き合い、共に学んでいきながら場を創っていくのだということが、舞台を下りて、しばらくしてから腹落ちしました。

私自身も未来がどうなるかが見えているわけではないということを正直に語り、その中で試行錯誤しながら生きていく姿をさらけ出すしかないのだと思いました。結局は、それこそが、私自身が、その場にいる存在価値なのだと思いました。

山本さんの「教えない授業」でも、同じことなのではないかと思います。

山本さんは、確かに教えませんが、生徒を信頼し、成長を願い、見守るという生き様が、生徒に伝わっているのだと思います。

そのことが、とてもよく現れているのが、巻末の付記の佐澤真比呂さんの感想です。

彼女は英語劇の部長として、部員に対してリーダーシップを発揮する立場にありました。

部員が思うように動いてくれない状況の中で、佐澤さんは、次のような気づきを得ました。

愕然としました。それと同時に、もしかして、と思ったのです。以前の先生の役割が、私に変わっただけなのではないか、と。その役割を担う人が変わっただけで、実際は何も変わっていないのではないか、と。これは、恐ろしい仮説です。しかし、そう考えると様々なことに納得がいきました。今やる気がある人は、自立して歩き始めることができている人なのでしょう。だとすれば、やるべきことは一つしかありません。

その気づきから、佐澤さんは、徐々に「教えない部長」になっていくのです。

そして、その体験を通して、山本さんの姿勢を深く理解できるようになっていきます。彼女は、最後に次のように述べます。

この1年間を振り返ると、先生は私たちに対して直接的に何かを「教えて」下さることはほとんどなかったけれど、その姿勢から教えて下さったことならたくさんあります。その最たるものは、やはり「自立して歩いて行く力」でしょう。先生にも口出ししたかったことは山ほどあったはずです。しかし先生は何もおっしゃいませんでした。私たちが学習する機会を奪わないために、です。

愛情をかけられた子どもは、そこから学び、同じ方法で愛情をかけられるようになっていくのだと思います。それは、教師と生徒との間でも同じことだと思います。

教師と生徒の関係や、親子の関係から学んだことが、生徒同士のグループ内で再現され、体験を通して理解が深まっていくという学びの仕組みこそ、学校という場に集まって学ぶ本来的な価値なのではないでしょうか。

両国高校には、活発な教師の学び合いのコミュニティもあり、真摯に学んでいく教師の姿勢が、自然な形で生徒に伝わる仕組があります。

私が「反転授業の研究」で実現したいのは、学校内に学習コミュニティがなくても、オンラインで学び合うことで、お互いに励まし合って真摯に学んでいく姿勢を整えていく場を創ることです。

私たちは、今、教師の本来的な存在価値と向き合う場面に遭遇しているのだと思います。

山本さんの「教えない授業」は、これからの教師の存在価値を姿勢によって示しているものではないでしょうか。

『生きるための論語』からAL型授業の本質を学ぶ

反転授業の研究の田原真人です。

私たちは、なぜ、アクティブラーニング型授業や反転授業を行うのでしょうか?

「知識基盤型社会に必要な21世紀スキルを身につけるため」という説明がされることもありますが、私は、この説明に違和感を感じます。

私が、問い直したいのは、学力テストによる序列化、社会的地位による序列化を外発的動機付けに使われることで学習回路が阻害されてしまうという仕組みです。

そのように条件つけられた環境の下では、生徒は、疑問を感じたり、深く考えることを止め、丸暗記したり、反復練習したりする方が、短期間で高得点を取れるということを学んでいくのです。

この学習回路が阻害される仕組みを維持したまま、「21世紀スキル」を移植しても、それが、新たな序列化の要素になるだけです。

どのようにすれば、生徒が自分で考え、主体的に学ぶような環境を作ることができるのか?

そのような環境において、教師の果たす役割は何か?

自分で考え、主体的に学ぶ生徒たちが増えたとき、組織や社会はどうなっていくのか?

そんな問いを心に抱いて、活動をしてきましたが、この問いに対して、大きなヒントになる書籍と出会いました。

それが、安冨渉著 『生きるための論語』です。

 

君子は周辺の小人を感化して学習回路を開く

私自身には、論語を読み解ける素養がないので、以下のことは、安冨さんの論語解釈を読んで、そこから感じたことであることを、最初にお断りしておきます。

安冨さんは、論語における「学習」を、次のように解読します。

「学」という段階では、受け取ったものが何なのか、学ぶ者にはまだ意識化されていない。より正確に言えば、細部に意識が集中してしまうことによって、全体が無意識化されてしまっている。ここには余計なものが染みこんでおり、この行為によって魂は多かれ少なかれ、呪縛されている。

それがある時、「習」によって完全に身体化される。すなわち、細部が身体化され、無意識化されることによって、逆に全体が意識化され、「ああこれか」と分かるのである。そうなることによって、不必要なもの、余計なものは排除される。こうして呪縛から抜け出したときに、人は学んだことを自由に駆使できるようになり、喜びを感じる。

私が、今の教育システムに対して感じている違和感は、安冨さんの言葉を借りると、「学」により魂が呪縛された状態を生み出すことに重点が置かれ、「習」により呪縛から抜け出して、無駄なものを自ら選んで捨てることで主体性を確立することがおろそかになっているのではないかということになります。

では、「学」と「習」とが十分に作動するためには、どのような構えであれば良いのでしょうか?

安冨さんは、それを、君子と小人の対比によって説明します。

君子:学習回路が開いている人。自分を常にモニタリングして、人の言うことに耳を傾け、自分の間違いに気づいたら、直ちに受け入れ、更に自分の行動を改める。

小人:学習回路が閉じている人。自分の過失を認めてしまうと、全人格を否定されたように感じるため、言い訳をし、行動を修正できない。

君子の在り方は、経験学習サイクルを回すことが身についている人の在り方に似ていると感じました。

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自分の行動を真摯に振り返り、間違いに気づいたら直ちに修正していくという在り方が君子なら、学習者が経験学習サイクルを回せるように支援していくアクティブラーニングは、いわば、「君子を育てる教育」なのではないでしょうか。

しかし、人間は、周りの影響で君子にも小人にもなり得る存在だと思います。小人の在り方をしている人は、どのようにして君子へと変わっていくのでしょうか?

それに対して、安冨さんは、次のように述べます。

君子がいれば、周辺の小人は感化されて学習回路を開く。

この言葉は、私たちが対話を重ねる中で出会った「LearningがLearningを促す」「学び続ける教師が、生徒の主体的な学びを促す」という言葉と重なるものだと思います。

教師が君子として振る舞い、教室の生徒たちの学習回路を開き、生徒たちを君子へと導いていくというのが、私たちの目指すアクティブラーニングや反転授業だと考えると、すっと腹落ちする感覚がありました。
 
実際、反転授業の研究の活動を通して出会った、小林昭文さん、下町壽男さん、和田美千代さん、江藤由布さんなどアクティブラーニングのトップランナーたちは、常に学び続けながら、自分の心と繋がった率直な言葉を発信しています。そして、その在り方に周りが感化されて、学習回路が回り、変容の連鎖が起こっています。

君子による呪縛なき秩序形成

安冨さんによると、孔子は、君子による学習に基づいた社会秩序を考えていたのだそうです。

それが、どのようなものなのか、コミュニケーションと学習の関係から考えていきます。

まずは、小人が集まった社会に生まれる秩序について考えてみましょう。

小人は、学習回路が閉じていて、自分の行動を修正しないので、相手との違いを無視し、同じものを共有しているという思い込みを形成します。これを、「同」と呼ぶのだそうです。

この延長線上に生まれるのが、共同体への帰属意識の形成により、お互いに呪縛し合う秩序です。

学習回路が閉じている小人は、学んだことによって魂が呪縛されている状態から、「習」によって抜け出すことができずに、他人の地平で生きる「魂が植民地化された状態」になっていきます。

言い方を変えれば、小人であふれている社会は、少数の権力者に支配されやすい状況だということになります。

一方、君子は、学習回路が開いているので、コミュニケーションを通して発生する相互の違いを学び合いのエネルギーに変えて学習回路を回していきます。お互いが自分の心に忠実に従って言葉を交わすことで、一時的に紛糾する状態である「乱」になりますが、それを途中経過として、尊重のある動的な調和状態である「和」に達します。

君子は、学習回路の正常な作動を守り抜き、自分の地平で生きるので、他人からの支配を受けにくく、自分たちの活動によって調和を生み出そうとします。

私たちは、オンライン講座を運営するときに、安心安全の場を創り、心を開いて対話していくと、しばしばカオスに陥り、その先に一体感のあるチームが生まれるというプロセスを何度も体験しました。それぞれが、お互いを尊重し合いながら、自由にコミットメントしていくと、場にエネルギーが流れ、個の能力の足し合わせ以上の成果をチームで達成することができました。それが、「和」の状態なのだと考えると納得がいきます。

「和」が達成されると、安心感と幸福感を感じられるようになり、よりいっそう、場に対して自分を投げ出していくことができるようになります。

私は、アクティブラーニングや反転授業で目指すものは、学習者に、この「和」を体験させることなのではないかと思います。

学んだことを、自分の中で消化して、余計なものを捨て去って身体知として身につけることで個性が磨かれていき、自分自身と繋がりながらコミュニケーションを取ることで「乱」を超えて「和」へ至るという体験こそが、未来を創る能力を育成すると思うのです。

私たちが、2013年に反転授業の研究を始めたとき、私たち自身がグループワークや対話などの経験を十分に持っていないことを自覚し、オンラインでの学び合いを通して体現することを目指してきました。オンラインの学び合いによって教師が主体的に学ぶことではじめて、教室での生徒の主体的な学びを促すことができると考えたのです。

試行錯誤をしながら、学び合いのオンライン講座を続けていく中で、受講者だった和田美千代さんから、「この豊かな場は、まさにネット果樹園だ」という言葉をいただき、オンラインに「和」を体現することができたと感じました。

そのとき、「この体験を広めていけばいいのだ」という強い確信が生まれました。そして、実際に、体験を共有した人たちが、教室の実践に生かしてくれるようになってきました。

安冨さんの『生きていくための論語』を読み、私たちが進む方向が間違っていなかったのだと大変勇気づけられました。

アクティブラーニングという言葉が、現在、急速に広がり、アクティブラーニングという授業形式を取り入れようとしている教師も増えています。

しかし、重要なのは形式ではありません。

教師自体が学習回路を開き、常に周りのすべてから学んでいるときに、それに感化された生徒たちも学習回路を開き、教師の率直なフィードバックを頼りに学習回路を回し、グループ学習の中で「和」を体験するということが重要なのだと思います。

そのような体験をした生徒たちが、社会に出て、自分の心と言葉とを一致させ、「乱」の状態になることを恐れずに君子として行動していってくれるはずです。それが、調和のとれた社会秩序を形成することに繋がっていくことでしょう。

私たちの多くは、社会秩序というものは、法律や規範によって作られているものだという幻想の中で生きています。

小人は規範に従って「同」になりますが、君子は自らの心に従い、魂の作動を頼りに行動します。

生徒たちの魂の作動を押さえ込み、学力テストによる序列化によって適応行動へと誘導していく教育は、小人を生み出していく結果を生み出しているのではないでしょうか。

私たちを取り巻く社会秩序は、小人の在り方が広がっていることによって維持されているように思います。

より調和の取れた社会を作るために、教育の世界で私たちができることは、まず自分たちが君子の在り方を体現し、生徒を感化することによって、世の中に君子を増やしていくことなのではないかということを、安冨さんの本を読んで感じました。

 

山本崇雄著『はじめてのアクティブ・ラーニング 英語授業』レビュー

オンライン教育プロデューサーの田原真人です。

2014年の12月に母校、両国高校を訪問し、授業見学をしてきました。

そのときに見学させていただいたのが、英語科の山本崇雄さんの授業でした。

授業見学のレポートは、下記の記事をご覧ください。

都立両国高校を見学して(上)― フォークダンスのように生徒が動く英語の授業

都立両国高校を見学して(下)― 教師の主体的な学びが生徒の主体的な学びを促す

山本さんの授業を見ていて、すごく印象に残ったのが、ペアを変わるたびに、相手に挨拶したり、お礼を言ったりするということでした。

ここには、なぜ、ペアやグループで学ぶのかということの本質にかかわるテーマが隠れているように思いました。

この度、山本さんが出版した『はじめてのアクティブ・ラーニング 英語授業』では、授業で行っている活動の背後にある考え方が種明かしされています。

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何を目的にしてアクティブ・ラーニングをやるのかを明確にし、その目的と様々な活動をリンクさせていくというところに、山本さんの授業の真骨頂があるのではないかと思いまいます。

山本さんの著書、『はじめてのアクティブ・ラーニング 英語授業』を読み、英語のアクティブラーニングの実践と、その背後の考えについて気が付いたことを書き連ねていきたいと思います。

ちなみに、僕のコメントも、表紙の裏に載せていただいています。

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自立した学習者を育てるためのアクティブ・ラーニング

本をめくると、一番最初に、

「自立した学習者を育てるためのアクティブ・ラーニング」

という言葉が、目に飛び込んできます。

また、英語のアクティブ・ラーニングを次のように定義しています。

①英語の「学び方」を能動的に英語で学ぶ活動

②英語を使って多様な考え方を能動的に学んだり、自分の考え方を表現したりする活動

このように、自分にとっての授業の目的、自分にとってのアクティブ・ラーニングの定義を作ることは、AL型授業を実践していく上で、非常に重要なことだと思います。

これには、2つのメリットがあると思います。

1つ目は、生徒と常に共有していくことで、生徒が、日々の活動を大きな目的に結び付けやすくなるというところです。

2つ目は、教師にとって、授業のやり方を試行錯誤するときの指針になることです。定義と目的が明確になっていれば、そこに照らすことで、授業実践を磨き上げていきやすくなるのです。

試しに、山本さんの目的が達成された状況の教室を思い浮かべてみます。

すべての生徒が「自立した学習者」であり、

英語の学び方を習得しており、

英語を使って多様な考え方を能動的に学ぶことができ、

かつ、学んだことを英語で表現することの重要性を理解している状況。

そのとき、教室で教師の役割とはどんなものになるのでしょうか?

生徒は自分たちで学び始め、それぞれが自分に合った学び方で学びながら、お互いに自分の考えを表現したり、お互いから多様な考え方を学び取ったりし始めるでしょう。

僕が見学した、山本さんの「教えない授業」では、まさにそのような状況が実現していました。。

山本さんは、前でタイムキーパーとしてベルを鳴らしたり、目標を確認したりするだけで、生徒が自分たちで協力し合いながら学びあっていました。

山本さんは、第1章で受験対策についても述べています。多くの教師が、授業をアクティブ・ラーニングに変えたら、受験対策が弱くなるのではないかと心配しているからです。

しかし、大学受験をゴールにせずに、それを通過点にしてその先も役立つ英語力をつけていくということは、同時に受験を通過できる力が自然に身についていくということでもあるのです。今後、「話す力」を測るスピーキングテストが受験に導入されるようになれば、普段から英語で表現することを鍛えている生徒たちは、さらに力を発揮することになるでしょう。

実際に授業見学した僕の印象は、「これを続けていけば、間違いなく英語力は伸びるだろうな」というものでした。授業における生徒の活動量が多く、生徒の頭の中が、まさに「アクティブ」になっているような授業だったからです。

すぐに取り入れられる授業の工夫

第2章、第3章では、英語のアクティブラーニングの具体的な実践方法が紹介されています。

1つ1つの方法の説明では、実際に使用しているワークシートなども公開され、具体的にやり方が説明されています。

さらに、冒頭で述べた目的との関係性が、いたるところに登場します。

方法+その背後の狙い

という組み合わせが、この本を価値あるものにしているのではないかと思います。

?たとえば、「ペアワーク」のところでは、活動の終わりに「Thank you」とパートナーに感謝の言葉を言うように指示したり、相手の良いところを発見するように指示したりするということが、大切なことだと言われています。

これは、生徒がクラスを自分の居場所だと感じることができたり、自己肯定感を高めたりすることに役立つと考えられているからです。

それは、「発音の学び方」にもつながってきます。ここでは、「教師がモデルを示す前に、生徒自身に発音させてみる」ということが提案されています。これは、間違いを恐れずに英語を話す態度を育てることが意図されています。間違いを恐れないで行動できるためには、教室が安心安全の場になっていることが必要なので、ペアワークでの大切にしてくることと深く関連してくるのです。

さらに、「勉強法の共有」では、各自が気づいた学びの本質を惜しげもなく披露していくことで、救われる生徒が出てくることが紹介されています。

ドリカムプランの産みの親の和田美千代さんは、アクティブラーニングの本質を、「互恵・共創・集合知」と言っていましたが、山本さんの授業でも、その精神が全体に広がっています。

自分だけで学ぶよりも、耳を傾けてくれる相手がいて、自分とは違う考え方を披露してくれる仲間がいて、そこに自分も貢献していくことで自己肯定感を高めながら学ぶことができるということに気付いたときに、自分も相手も生かしながら学ぶことができる自立した学習者になっていけるのではないでしょうか。

山本さんの授業には、そこへ向かっていくための様々な工夫が凝らされているのです。

生徒による授業

山本さんの「教えない授業」は、授業の一部を生徒に任せたり、教科書の内容を生徒だけで学ばせたり、というように、生徒の力がついてくるにしたがって、教師はコントロールを手放していきます。

そして、究極のコントロールの手放しが、生徒による授業です。

山本さんは、次のように語ります。

いつか授業全体を生徒に任せてみましょう。教師のコントロールを離れたとき、はじめて主体的な学びが生まれます。そして、この主体性は10年後、20年後の生徒の生きる力へとつながるのです。

山本さんの授業は、いろんな工夫がされていてすごいです。

でも、一番すごいところは、覚悟を決めてコントロールを手放すマインドだと思うのです。

ドラマが起これば未来がやってくる

「反転授業の研究」の田原真人です。

不確定な時代を生きていく上で、僕が心のよりどころにしている言葉があります。

それが、

ドラマが起これば未来がやってくる

という言葉です。

自分が思い描いている結果を手に入れようとして、そこに固執していると、思うようにならない現実をすべて敵に回すことになり、心身共に消耗していきます。

でも、力尽きたその果てに、自分の思惑を超えた大きな流れに身を任せることができると、自分が思いもよらなかった未来がやってきて、後から振り返ってみると、すべてが必要なプロセスだったと感じられるような結果が得られたりするのです。

そのような経験を繰り返すうちに、

結果を求めてもしょうがない。大きな渦が生まれ、自分を手放してそこに巻き込まれていくことでドラマが展開すれば、未来へたどり着くことができるのだから、ドラマを起こすことに意識を集中していこう。

そんな風に考えるようになりました。

クラウドファンディングを通して気づいたドラマの持つ力

2年ほど前からクラウドファンディングに関わるようになりました。

僕の場合、関わると言っても、自分が資金集めの主体になったことはなく、勝手におせっかい応援団を作っていくという関わり方です。

自分の問題意識と強くシンクロする人がときどきいて、その人がアウトプットしていることを読んでいくうちに、この活動にコミットしていきたいというスイッチが入るんですね。

自分で自分のことを「応援してくださーい」と言うのは、なかなか難しいです。

でも、利害関係のない人が、「あの人を応援しようよ!」と言っていくのはやりやすいです。

だから、応援者の存在が、クラウドファンディング達成のカギを握ることが多いです。

それで、主体になっている人には、「僕達の聞きたいのは、あなたの想いだから、とにかく想いを連載の形でアウトプットしていってください」とお願いします。

そして、そのアウトプットに自分の想いをシンクロさせながらSNSなどで拡散していきます。

そうすると、その想いが祈りのように広がっていって、そこに共振、共鳴した人たちが続々と集まってくるんですね。

そして、だんだんとシンクロが強まっていってうねりが大きくなっていきます。

でも、そうはいってもクラウドファンディングの締め切りは近づいてきて、達成は厳しい状況になってきたりすることもあります。

心の中に様々な想いが行き来し、そこに関わってきた人の心も大きく揺れ動き、そこからさまざまなアクションが生まれてきます。

クラウドファンディングの締め切りに向かってドラマが展開していくんですね。

その中で、ふっと気づくわけです。

本当に大切なことは、クラウドファンディングを達成してお金を得ることではなく、主体者の想いに人が集まってきていて、様々なアクションを自分から起こしてくれているドラマそのものなのだということに。

そして、ドラマが大きく展開すると、クラウドファンディングを達成したかどうかに関わらず、必ず未来がやってきます。

そこに関わったすべての人が、それぞれに大きな学びを収穫し、マインドセットが変わり、世界に対する信頼感を強めます。

そして、毎回、つぶやくんです。

やっぱり、ドラマが起これば、未来がやってくる。

大学の教室でドラマを起こしていく

ドラマには、様々な要素があります。

先の見えないカオスの中で、困難にくじけそうになり、仲間と助け合い、自分のこだわりや怖れを手放すと、予想もしなかった展開が生まれ、未来がやってくる・・・・。

これこそ、まさに学ぶということなんじゃないかなって思います。

それを、大学の教室でやってしまっているのが、京都精華大学の筒井洋一さんの「グループワーク概論」

筒井さんが始めた劇場型授業は、まさに授業の中でドラマが展開することを意図しているものだと思います。

この授業にずっと関わっている大木誠一さんのコメントを引用します。

劇場型授業が教室に創りだした場は、日常生活のインフォーマルな学びと学校に代表されるフォーマルでアカデミックな学びを接続するための機能を持っています。「学び」というと、学校を想像されるでしょうが、人の学びの大部分は、普段の生活にあるインフォーマルな学びです。これが、「人は生まれた時からアクティブな学び手である」といわれる所以です。人は、誕生した時から周りに人達とつながることで、いろいろなことを学んできています。しかし、いま、多くの学生や生徒は、日常生活のインフォーマルな学びと学校のフォーマルな学びを接続することに成功していません。

「オープンでフラットな場」とは、大学の境界を越えて教室に参加したすべての人が構成するインフォーマルな「カオス(混沌)」です。そして、この「カオス」は、すべての参加者の日常(インフォーマルとフォーマルの両方)と、教師と学生で構成される教室というフォーマルな場の中間に位置している新たに創りだされた場です。

この場では、最初、参加者同士の関係性が生まれていないために、参加者の役割が不明確で、手探りの状態です。この場の参加者は、主体的かつ能動的に他の参加者と関係性を作りだし、この場での役割を自ら見つけ出す必要があります。

振り返りの時、初めての見学者は、「どのように振る舞えばよいかよくわからなかった」とよく言われます。これは、すべての参加者が感じている疑問です。CTは、当日の進行を任されているためにより強くこの疑問を感じているはずです。

授業が始まって間もなく、CTと学生の間に「想い」の食い違いが必ず生まれ、教室に対立や矛盾が生まれてきます。これを上手く解消し、見学者を巻き込みながら学生と一体となって教室に新しい「学びの場」を創りだすことが、CTと学生に求められていることです。CTが、先行してこの活動に取り組むなかに学生が巻き込まれ、なかにはCTと同じ役割を果たす学生が出てきます。

劇場型授業では、CTの成長が目に見えて著しいものになっています。しかし、これに巻き込まれた多くの学生にも、明からな変化や成長が見られます。そして、その変化は、学校外の活動への積極的な参加へと結びつく場合もあります。

上手くデザインされ、細部にわたって構造化された授業デザインでは、この動的な変化は起こりません。「安心で安全な場づくり」と「失敗できる環境づくり」は、この授業のプロセスから生まれる途中経過とその結果を示していると考えています。この授業のスタートは、不安で不確実な混乱した状態で、何が起こるかわからない状況です。この社会の現状と近似した「カオス」こそが、この授業の本質です。

すべての参加者の出発点である「カオス」のなかで生まれる対立と矛盾から、「安心で安全な場」と「失敗できる環境」が生み出され、最終的に「学びのコミュニティ」を形成されていくことがこの授業の狙いです。

インフォーマルな学びと学校のフォーマルな学びを接続する場は、参加者自らが主体的かつ能動的に関係性をつくりあげなければ崩壊する大変もろい地盤です。しかし、この試練をとおして、学生は自らのインフォーマルな学びと学校のフォーマルな学びを接続することができるのではないでしょうか?そして、この参加者すべての試練の軌跡を、全体として眺めると、それはこの場の創りだす「創発」現象と視ることができると考えています。これこそ、「21世紀型スキル」のようなジェネリックスキルを育成する場のアプローチとして重要視されているものではないでしょうか。

クラウドファンディングを経験した僕たちは、共にカオスの海を乗り越える冒険をしたことで、冒険の後に信頼で結ばれたコミュニティが誕生するという経験を何度もしました。そして、それこそが価値があることなのだと気づきました。

大木さんが、最終的に「学びのコミュニティ」が生まれていくことを授業の狙いとしているというところに、僕たちの経験との強い類似点を感じました。

外から現れる見学者の存在も、場へ不確定性を加える役割を果たしていると思います。

その不確定性は、固定した着地点を目指す場合にはマイナスになるかもしれませんが、ドラマが、よりドラマチックに展開することを意図するのであればプラスになります。

「ドラマが起これば、未来がやってくる」のです。

 

新たなドラマの始まり

僕は、今、『CT(授業協力者)と共に創る劇場型授業』のレビューを連載という形で書いています。

その理由は、何かというと、「あ、新たなドラマが始まった」と感じたからです。

学びを未来型に変えていくために、京都精華大学で生まれた劇場型授業を外へ出していこう、そのために、本を執筆しようということで動き出したプロジェクトは、出版を引き受けてくれる出版社が見つからないという困難にぶつかりました。

そこで、筒井さんが自己資金を投入してリスクを背負い、教員、CT、見学者が協力して共同執筆することでこの本が生まれました。

この本が4000~5000部程度売れないと、筒井さんは赤字なのではないかと思います。

ドラマが展開する舞台は、すっかり整いました。

僕は、このドラマに加わりたい。

これから待ち受けている困難を共に乗り越えることで、ドラマを展開させていき、筒井さんたちと学びのコミュニティを形成したいのです。

まだまだドラマは始まったばかり。

これから生まれるであろう渦に巻き込まれたい人は、ぜひ、コミットしてきてくださいね。

 

 

 

『CT(授業協力者)と共に創る劇場型授業』レビュー(2)

「反転授業の研究」の田原真人です。

『CT(授業協力者)と共に創る劇場型授業』を読みながら、「反転授業の研究」の歩みを振り返っていき、連載レビューの形で皆さんと共有したいと思います。

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CT(授業協力者)とは何なのか?

筒井さんの「グループワーク概論」や「情報メディア論」の一番大きな特徴は、何といってもCT(授業協力者)の存在だと思います。

教員と学生の中間に位置し、教員の代わりに教壇に立って授業を進めるが、教員でも学生でもない存在。

CTとは、いったい何なのか?

CTとは、どのような役割を果たしているのか?

CTを導入することで、どのような効果が生まれるのか?

このような疑問についての自分なりの答を知りたくて、筒井さんの授業に出会ってから、様々な仮説を立てながら考えてきました。

「反転授業の研究」に運営ボランティアを導入し、CTと似た役割を担ってもらうようになり、様々な気づきがありましたが、それは、果たしてCTとどこが同じで、どこが違うのかという新たな疑問も生まれました。

『CT(授業協力者)と共に創る劇場型授業』の第2章では、多くのCTや見学者が、自らの言葉で語っており、僕にとっては、それらの言葉が、まさに「気づきの宝庫」でした。

劇場型授業という新しい試みを体験したCTや見学者の言葉は、まさに未来の教育が生まれつつある現場からの実況中継で、同じように試行錯誤を重ねている僕達にとって、多くのヒントがありました。

以下で、特に印象に残った部分を紹介したいと思います。

第2章 学生が学びたくなる授業の工夫

CTや見学者は、どのような想いでこの授業へ参画してきたのでしょうか?

第2章を読み通して、大きく3つに分類できそうな気がしました。

(1)学生時代の体験から、自分が受けたかった授業を自分で創ってみたい。

(2)教える側の問題意識から、学生が主体的に学ぶ場創りを学びたい。

(3)新しいことが生まれている魅力的な場に関わっていきたい。

そして、最初の段階では、CTの意識は、「どのような授業を創るのか」という点に向いていきます。CT内でも異なる想いの擦り合わせをしながら、同時に授業を創っていく作業は、かなり大変だったのではないかと思います。

しかし、CTの語りを読んでいくと、ある時点で、意識が学生との関係性へと向かっていきます。これが、とても興味深いです。いくつか引用してみます。

桑原恭祐さん

モジュール2の最後の授業、私たちは、私自身やCTの役割をはき違えていたことに気付いた。CTが各ステークホルダーの意見を汲み取り、CTがすべてまとめて、CTがすべて授業を創る・・・すべてCT内で完結させようとした結果、問題が山積みになり解決できないほど膨れ上がってしまった。モジュール3をどう設計すればよいか、霧がかかって見えずにいたのである。

(中略)

モジュール2最後のリフレクション会では、学生が授業へのさらなる改善要望や自らの成長目標を実施前よりもはっきりと発信してくれるようになった。このことは私たちにとってもありがたく、それが大きな道しるべになった。

出町卓也さん

教授から見た学生だけでなく、CTから見た学生という視点が加わることで、学生を多角的に捉えることが可能になる。その結果として、学生の良い面を知る機会が向上し、彼らの価値を高める働きとなる。そこでCTは、教授とは別の授業担当者として、参加学生全員への目配りをすることが大切である。ただニックネームを覚えるだけでなく、誰がどのような人物か、その存在を認識すること。小中高では当たり前のように行われていた存在の認識を再度、大学の授業で体感させることで、学生に授業の一員であるという認識と自分の存在がCTや教授に覚えられているという自己の肯定感を生み出す。参加してくれている学生一人一人を大切にする支援が、CTの最も重要な役割であると私は考えている。

矢野康博さん

重要なのは、いかにCTが人としての魅力をしっかりと伝えた上で、学生たちとの関係性を築いていけるかということなのだと思います。常に教壇に立つ教授には質問しにくいことを聞ける距離感を、CT自らがつくりあげていく。それが授業に対する学生の理解度に大きく影響しているように感じましたし、そこにCTの存在意義があるのだと思います。

吉田美奈子さん

「CTと学生って近いようで、遠いよね」

この言葉によって、学生の近くにあることがまずCTに求められている仕事だということが全員分かったのである。そこで寄り添うための役割や居場所をCT3人がそれぞれに探る日々が新たに始まった。

はじめは、CTの役割とは何かということをCTも知らない状況でスタートし、授業つくりをしながら学生と関わっていく中で、試行錯誤の中から「CTとは何か」ということを発見していくところが非常に興味深いです。

そして、ほとんどのCTが、学生との信頼関係を構築することや、自分たちが学生から学ぶことの重要性に気付いていくというところに大きなドラマがあり、この授業の醍醐味が詰まっていると思いました。

CTが弱みを含めて自分をさらけ出すことで、学生も自分を出せるようになり、役割を超えた個人と個人の関係性が生まれてくるようになっていくというプロセスは、人間関係の本質的な部分なのではないでしょうか。

CTが学生との関係性との間に信頼関係を構築できるようになると、教室が安心安全の場になってきて、その中で自由に動くことによってコミュニケーションに関する様々な学びが生まれてきているように思います。

見学者の松井智晶さんが、鋭い指摘をしていました。

学生にとってどういう存在か分からないけれど、なんとなく親しみを感じる人が教室内にたくさん存在することは、従来の授業構造から学生を自由にしていた。つまり、この授業において学生は教員だけを意識するのではなく、『周りのすべてを意識して行動する』のである。学生同士、CT、見学者、教員で作られた場の中で教員のみの顔色をうかがう学生はいない。この場の中で自分がどうふるまえばよいのか、自律的に考え行動せざるを得ない環境であったともいえる。

筒井さんが語っている「教室の学びと社会の学びとを近づけていく」という理想は、言い換えれば、教室内に複雑な関係性を持ち込みつつも、安心安全の場を創り、失敗を許容してチャレンジできるようにしていくことなのだと思います。

CTが、学生との信頼関係を構築することの重要性に気づき、教室が安心安全の場になったとき、まさに、社会の縮図としての学び場が実現したのかもしれません。

お互いが受け入れられていることを感じている空間では、失敗が許容されるので、枠組みから出てチャレンジしやすくなります。その結果として、学生の中からも授業つくりに参画してくる人が出てくるなどの現象が起こっているのではないかと思いました。

居心地のよい場が生まれたことで、結果として、学生の脱落率も減り、「人に会いに来る」という感覚で授業に参加してくるようになるのだと思います。

また、第2章を読んで、複雑な関係性は、各人の様々な側面を明らかにし、相互理解を深める効果を持つのだということに気づきました。

CTを対等に扱う筒井さんを学生が見ることで、学生は筒井さんが誰にでもオープンな人であることを理解したり、学生がCTに話す様子を見て、筒井さんが、学生やCTの長所を見出したりすることができるのです。

四方八方に張り巡らされたコミュニケーションのネットワークは、相互理解を立体的にし、お互いが長所を発見していくことを可能にするのだと気づきました。

学習コミュニティへの誘い

「反転授業の研究」のオンライン講座は、当初、脱落率の高さに悩んでいました。

50%以上が脱落してしまったという苦い経験もありました。

リアルの教室に比べて、オンラインは拘束力が弱いので、気軽に脱落できてしまうのです。

脱落率を減らすために様々な工夫をした結果、たどり着いたのは、「雑談ルーム」や「放課後ルーム」という場を創り、受講者と運営チームの間のコミュニケーションの機会を増やすということでした。

現在は、運営ボランティアが雑談ルームのマスターを担当し、毎週、夜遅くまでビデオチャットでおしゃべりをしています。

講座のセッションとは別に交流の機会を設けたことで、講座の脱落率は激減し、脱落率は、10%を切り、0%も何度か達成しました。

ここでは、共感と想いで繋がった運営チームのコミュニティが安心安全の場を創り、そこに、受講者を招き入れて、運営チームと受講者を合わせた学習コミュニティが形成されるというプロセスが働いているように思います。

学習コミュニティの一員となり、自分の存在が学習コミュニティの中で認知されているという実感が、脱落しにくい状況を生み出しているのです。

このような自らの体験を通して筒井さんの授業を見ると、筒井さんの周りにCTや見学者からなるゆるやかな学習コミュニティがあり、そこに学生が暖かく迎え入れられているという姿が浮かび上がってきました。そして、授業に参加している学生も学習コミュニティの一員として認知されることによって、授業は居心地のよい空間になり、様々な人と関わりながら学ぶことのできる場になっているのではないかと思いました。そうなっているからこそ、筒井さんの授業では、学生の脱落率が非常に低くなっているのではないでしょうか。

ところで、コミュニティと学習コミュニティの違いとはなんでしょうか?

僕は、「メンバーが周りのすべてを参考にしながら、試行錯誤したり、振り返ったりして、協力しながら自律的に学んでいくコミュニティ」を学習コミュニティと呼んでいます。

安心安全の場の中で、失敗することが許容され、すべてのメンバーが試行錯誤や振り返りをして経験学習サイクルを回していくときに、周りに学びあっている人がいることで、試行錯誤のアイディアを得ることができたり、振り返りのときに異なる視点からの気づきが得られたりして、成長が大きく促されます。

そして、自分だけでは学べないことを、コミュニティのおかげで学べているという実感が生まれ、コミュニティのメンバーに対する感謝が生まれます。

「反転授業の研究」のオンライン講座では、運営ボランティアが学びの伴走者として、学習コミュニティでのマインドセットや学び方を率先して体現していきます。

筒井さんの授業では、CTが、協力して壁を破りながら成長していくことで、この場で求められている在り方を体現しているのだと思います。

それにより、学びが学びを促す、成長が成長を促す、という動きが生まれているのではないでしょうか。

筒井さんが果たしている役割は、その「在り方」によって、学生、CT、見学者に安心安全の場を創ることなのかもしれません。

最近、筒井さんは、高校や専門学校などの授業見学をして回っています。

筒井さんが知識をアップデートして進化していくことが、また、筒井さんの授業に新しい風を吹き込むことに繋がり、新たな展開を生み出しそうな予感があります。

ドラマが起こると、人の心が大きく動き、その中で成長していきます。

2016年も、筒井さんの授業では、様々なドラマが起こることでしょう。そして、そのドラマに巻き込まれた人たちすべてが、大きく成長していくはずです。

『CT(授業協力者)と共に創る劇場型授業』レビュー(1)

「反転授業の研究」の田原真人です。

『CT(授業協力者)と共に創る劇場型授業』を読みながら、「反転授業の研究」の歩みを振り返っていき、連載レビューの形で皆さんと共有したいと思います。

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劇場型授業との出会い

「反転授業の研究」は、2013年に本格的な活動を始めてから、いくつかの転換点を超えて、殻を破りながら不連続に発展してきました。

2014年に僕たちが抱えていたのは、どうやったらコミュニティ内の学びをもっとオープンでフラットにできるのかということでした。

「反転授業の研究」が運営するオンライン講座が、教える側と教わる側に分かれてしまっていて、主体的な学びを目指すグループでの学びが、一方向的になっているということに矛盾を感じていたのです。

回を重ねるごとに矛盾が大きくなっていき、終には、運営者として感じている苦しみをコミュニティ内でオープンにすることになりました。運営者がコントロールを手放したことで、たくさんの方が助けてくれ、新しい道が開けました。

せっかく開けた新しい道をどうやって進んでいこうかと、キョロキョロあたりを見渡していたときに出会ったのが、京都精華大学の筒井洋一さんでした。

「これだ!」と直感的に感じて、インタビューさせていただきました。

京都精華大学人文学部教授 筒井洋一さんにインタビュー

筒井さんの授業に導入しているCT(授業協力者)や見学者を、「反転授業の研究」のオンライン講座に導入したらどうなるのだろうか?

筒井さんのところでうまくいっているからといって、自分たちのところでもうまくいくだろうか?

様々な不安や疑問を感じながら、2014年12月に、コアメンバーと一緒に京都精華大学の筒井洋一さんの「情報メディア論」の授業に見学者として参加しました。

京都精華大学「情報メディア論」を見学して

不安や疑問はありましたが、もう後戻りできないところまで来ていたので、清水の舞台から飛び降りる気持ちで、えいや!っと運営ボランティアを導入しました。

それから1年経ちましたが、運営ボランティアの導入には、メリットしか感じていません。

10名ほどのチームで場をホールドするため、オンラインに安心安全の場ができ、多くの知恵と労力を使えるため、チャレンジしやすくなりました。

1年間、運営ボランティアと一緒にオンライン講座をやったことで、他にはない価値を生み出すことができ、次のステップも見えてきました。

今から思えば、1年前に筒井さんの授業を見学に行ったときが、大きな大きな転換点だったと感じています。

筒井さん、CT、授業見学者が20名ほど集まって書いた『CT(授業協力者)と共に創る劇場型授業』を読みながら、僕たちの1年間の歩みを振り返ることは、大変有意義な非同期の対話になると思います。

第1章 共感でつながるオープンな大学の教室

『CT(授業協力者)と共に創る劇場型授業』を読みながら、1年間の学びを振り返っていきたいと思います。

今日は、第1章。

いろんな人が、学習意欲を高めるための工夫をしています。

伝統的な授業では、

・面白い授業をする。
・褒めたり、叱ったりする。
・よい点数が取れる。

というようなものが使われることが多いのではないでしょうか。

僕が、予備校講師をやっていたころは、まさにこの3つを組み合わせて授業をやっていたような気がします。

サービス満点の授業で興味を引き付け、点数の取り方を教えて成績を伸ばし、ときどき褒めたり、叱ったり・・・・。

これは、1つの「あるべき姿」というゴールを設定し、そこへ向かって集団を引っ張っていくときには、有効な方法だと思います。

しかし、ここに欠けているのは多様性。

1つの基準で集団を測り、それによって序列化していく世界を、教師自身が内面化し、それを教室内で再生産しているわけです。

そして、その基準による競争が、協力しにくい状況を生み出し、個人を孤立化させているのです。

本来、人間には多様な個性があり、それぞれが、それぞれのやり方で幸せになる方法を見つけていけばいいし、お互いの違いから学びあったり、協力したりしていけばいいわけです。

この1年間、違いを認め合って協力し合った結果、安心感と幸福感を得ることができました。そして、自分を守る必要がなくなったことで、創造性も、以前よりも発揮できるようになりました。

このような関係性の構築を広げていけば、幸福感を感じられる人が増えていくだろうなーという確信が芽生えました。

筒井 洋一さんの授業は、そのような関係性を構築する方法を学ぶことができるものです。

学生は、「一元的な価値で測られる」というマインドセットにどっぷりつかっているので、それを動かしていくためには、「教授」という権威が大きな妨げになります。

だからこそ、学生と年代が変わらない「CT(授業協力者)」が、筒井さんと協力して授業を創っていくことに大きな意味があるのだと思います。

内発的な動機づけによって参加しているCTさんが、教壇に立つことで、学生のマインドセットは大きく揺すぶられるのではないかと思います。

外発的な動機づけが弱まると、内発的な動機によって動くことができる可能性が生まれます。

統制されている空間とは違い、それぞれが自分の気持ちで動き始めるとカオスが生まれます。

でも、このカオスこそが、自然な姿であり、カオスを共に乗り越えていき、何かを創るという体験こそが、本来の学びなのではないかと思います。

そして、それは、多様な社会の中で、自分の居場所を見つけて、自分と周りを生かしながら生きていく術を見つけるための学びにもなります。

自分と他人の違いから学ぶことができることの重要性に気づいたときに、教授、CT、多くの見学者からなる授業空間の多様な関係性が、学びの源泉になることに学生は気づくのではないでしょうか。

コラム(1)で戸田千速さんが述べているように、教室内に「教員ー学生という固定した関係性に留まらない多様な関係性の内包している」ことが大きな価値を生み出すのです。

コラム(2)で柳本英里さんが指摘しているように、CTと学生とが関係性を積み上げ、その上でフィードバックを送り合う相互関係の中でこそ、自己変革に繋がる学びが起こるのだと思います。

この学びは、学生だけにとどまらず、CTや見学者にも豊かな実りをもたらすものです。コラム(3)では、見学者として関わった遠藤龍さんが、まるっとーく in 綾部での場つくりの話を紹介していますが、筒井さんの授業を体験した学生、CT、見学者が、その衝撃によってマインドセットを変え、その関係を外部に広げていくという動きは、さらに広がっていくと思います。

僕自身も、筒井さんの授業をきかっけに、マインドセットを変え、オープンでフラットな学びを広げていこうとしている人の一人です。

Bob Stilger著『未来が見えなくなったとき、僕たちは何を語ればいいのだろう』が社会的変容への地図となる

「反転授業の研究」の田原真人です。

NPO法人home’s viの嘉村賢州さんがFacebookでこの本を紹介していたのを見て、直観的にこの本は読まねばならない本だと感じて手に取りました。

 → 嘉村さんのインタビューはこちら

本を読み始めてすぐに、自分の直感は正しかったことが分かりました。

東日本大震災から4年、僕たちのグループ「反転授業の研究」で起こってきたことを、コミュニティ再生という視点から見直すことができました。

この本から得られた多くの気づきをまとめて、みなさんとシェアしたいと思います。

311後の世界に「反転授業の研究」は生まれた

本を読み始めて、「反転授業の研究」は、311後の世界に生まれた、新しい世界の創造を目指すコミュニティの中の1つだということに気づきました。

今まで、そのように捉えたことはありませんでしたが、311後の様々なコミュニティ再生の物語を読み、僕たちがやってきたこととの数多くの共通点を見出したことで、「僕たちの物語」を、もっと大きな枠組みのメタストーリーとの関係で捉えられるようになりました。

2011年の3月末、仙台で友人たちと食事をとりながら、自分の口から出てきた言葉を今でもはっきりと覚えています。

本当に残念なことだけど、311を境に世界は変わってしまった。311以前の世界は、もう存在していない。

 

そのことを認めて、今から何ができるのかを考えようと思う。

311以前に思い描いていた将来設計は、311以前の世界を前提に成り立っていたものだったので、世界が変化したことによってすべて放棄することになりました。

そして、未来が見えなくなってしまいました。
 
表面的には311以前と連続している世界が目の前にありましたが、世界を成り立たせていた土台が大きく揺らぎ、同じものを見ても、同じ解釈コードでそれを解釈することができなくなりました。

それから数年間は、経済的にも精神的にも、「未来へ繋がる何か」を探す日々が続きました。

誰かと話したいという欲求が、これまでにないほど高まりました。

そんな中で出会ったキーワードが「反転授業」でした。

そして、オンラインで繋がっていた友人たちに声をかけ、少人数でオンラインの読書会を始めたのです。

311がなければ、反転授業と出会っていなかったかもしれないし、仮にであったとしても自分から動いて読書会を始めようと思わなかったかもしれません。

未来が見えなくなって、未来を探しているときだったからこそ、自分から動いていかなければならないという気持ちが生まれ、行動につながったのだと思います。

311以前は、僕は、ほとんどリーダーシップを発揮するようなことはなく、集団から少し離れて自分のペースで安定した生活を送っていました。 自分が3000名を超えるコミュニティの主宰者になっている今の状況は、そのときの自分には全く想像ができなかったものです。

この本の中では、たくさんの「リーダーシップをとる普通の人」が登場します。

未来が見えなくなると、人はカオスの中に投げ込まれます。

そのときに、安定した日常の中では眠っていたものが呼び起こされ、未来を探して行動し始めるのではないでしょうか?

それは、僕にも起こったことだし、時代認識を共有する多くの人にも起こったことだと思います。
 
この本を読みながら、震災から4年たって、僕自身や、僕の周りで起こったことについて多くの経験が、言語化されないまま放置されていたことに気づきました。

そして、ボブさんの言葉を借りながら、少しずつ言語化されてきて、より大きな枠組みの中で現在地を知ることができました。

 

自己組織化のプロセス

ボブさんが、自分自身のコミュニティの仕事の原則をリストアップしていました。

●あらゆるコミュニティはリーダーに満ちている

●何であれ、コミュニティの中に答えはある

●誰も待たなくてよい。いま改善するための資源はすでにあるのだから

●明確な方向感覚が必要だ。エレガントで最小限のステップで進むために

●一度に一つずつ進める。歩むことで道を創りながら

●局地的な仕事は、世界の同種の仕事とつながれば社会的変容と深化する

このリストは、「反転授業の研究」が歩んできた2年間を思い浮かべると、うなづけることばかりです。

「反転授業の研究」に「多様性のある森を育てる」というビジョンを掲げ、どうやって自己組織化が起こるのかということを考えていたときに、「外部から有名な人を連れてきて話を聞くというようなことを当分やめよう」と思いました。
 
自分たちの学び合いを促進していこうとしているときに、外部の権威の存在が邪魔になると思ったのです。

それで、コミュニティの中で活動的な人に光を当ててオンライン勉強会のスピーカーになってもらうことにして、活動がより活発になるような仕組み作りをしていきました。誰もが一歩踏み出してリーダーシップを取れる状況を作り出していこう。最初からリーダーが存在するのではなく、誰もが一歩踏み出せばリーダーになるという状況が大事だと思ったのです。
 
それが、どこへ向かうのかは全く見えていませんでしたが、直感を信じて、少しずつ未来を創っていきました。
 
はじめはなんとなく始めたことが、やっていくうちに価値に気づくということもたくさんありました。
 
そのようなものの一つが勉強会のスピーカーを紹介するためにはじめたインタビューです。インタビューされた人が、もともと潜在的に持っていた力に気づき、力を発揮するようになるという経験をしたことで、インタビュー記事を書いて応援することに大きな価値を感じるようになりました。2年間で40本以上のインタビュー記事を書きました。
 
グループの運営にかかる費用も、グループ内のコラボレーションによる有料ワークショップから捻出できるようになりました。コミュニティ内の参画型の学びが価値を生み出せるようになり、「有名講師」が存在しなくても、受講者が集まるようになってきました。
 
まさに、コミュニティ内に答がありました。
 
自分たちの力を信じて、一歩一歩行動しながら未来を創っていったのが、よかったのです。
 
僕たちがこれからやることは、「反転授業の研究」の物語を語り、他のコミュニティの物語と繋がることかもしれません。

ボブさんの原則が正しいのなら、それは、さらに大きなうねりを生み出し、社会変革につながる道になることでしょう。

新しいパラダイムの創造

ボブさんが、東北地方で行った様々な対話の中で生まれた見解は、次のようなものでした。
 

東北地方にとっても、そして日本全体にとっても、古い価値観を復興するのではなく、新しいパラダイムを創造することが絶対に必要だ。

そして、新しいパラダイムの創造のために必要な5つの実践が述べられていました。

●静かにする。
●つながる。
●聴く。
●共感する。
●混乱しておく。

この中で、最も印象に残ったのは、「混乱しておく」ということ。本当の明瞭さが湧きおこるまでそのままでいるということが大切だということ。未来が見えないモヤモヤの中で、知的保留をしながら未来が訪れるのを待つことの重要性を感じ続ける日々だったので、「混乱しておく」という言葉には勇気づけられました。
 
ボブさんは、また、次のように言います。

持っているものを探せ。

これも、大変示唆に富む言葉です。
 
グループの中にはたくさんの知恵がバラバラに散在していて、使われるのを待っていると感じています。
 
それが行動として現れるためにコミュニケーションが必要で、お互いの状況を話して、お互いに貢献できそうなこと、協力できそうなことを見つけようとすると、散在していた知恵を使うことができるようになり、未来が見えてきます。
 
未来はどこかにあったのではなく、組み立てられていないジグソーパズルのように自分たちの中に散在していて、お互いがどんなピースを持っているのかを話し合うことで組み合わされて大きな絵を共有できるようになるのではないかと思います。
 
協力できるという実感は自信につながり、
手を挙げれば誰かが手伝ってくれるという安心感が行動への閾値を下げていきます。
そのような安心・安全な場が出来上がれば、次々にコラボレーションが起こり、未来を創る動きが加速し始めます。
 
未来を創るために必要なものは、自分たちの中にあったのだという実感があります。
 
ボブさんがコミュニティ再生のために使用する変容型シナリオ・プランニングやアート・オブ・ホスティングなどの手法に、大変興味が湧きました。これらは、僕たちのコミュニティが未来を見つけるために役立つものになると思います。

未来は相互に耳を傾けることで創られていく

 
ボブさんは、「未来は相互に耳を傾けることで創られていく」と言います。
 
これは、311以前に聞いても、まったくピンと来なかったでしょう。

なぜなら、311以前、僕は、人の話を聴くということをあまりしていなかったからです。

自分の頭から論理的に導き出された答に従って行動していたため、人の話を聴く必要性を感じていなかったのです。
 
しかし、311の後、論理を成り立たせる大前提が崩れたことで、本当に混乱しました。
 
何を信じて、どうやっていけばよいのかが分からなくなったのです。

だから、人の話に耳を傾けられるようになりました。
 
いろんな人から学びたいと思ったのです。
 
他の人が、どんなことを感じたり、考えたりしているのかを知りたいと思ったのです。

たくさんの人の話を聴いていくうちに、次のことに気がつきました。

自分の判断を保留して、好奇心を持って人の話を深く聴き、自分の感じたことを素直にフィードバックしていくと、相手の中で暗黙知だった部分が言語化され、物語化されていくことを支援できるのです。そして、それは相互に起こることなので、僕自身の暗黙知も言語化されていき、形式知として他人と共有できるようになりました。
 
対話を重ねることによって、何をすればいいのかが明瞭になり、誰と協力すればいいのかが見えてきました。
 
まさに、「未来は相互に耳を傾けることで創られていく」ということを実感しました。

自分らしさが他者とのつながりから生じる

 
この本を読んでいると、心を大きく動かす宝物のような言葉に頻繁に出会います。
 
旧世界では、既存のヒエラルキー構造のポジション争いをするための競争を行っていて、その競争で勝利することが、成功の定義とされていたのではないでしょうか。そこでは、自分らしさとは、競争に勝つために集めたアイテムやトロフィーによって他者と差別化することによって手に入れるものだと考えられていたと思います。
 
しかし、その世界が成り立たなくなることをリアルに感じ、自分たちのコミュニティの中から共創(Co-Creation)によって未来を作り出していこうとするとき、自分らしさの捉え方が180度変わります。
 
ボブさんの言葉は、そのことを鋭く言い当てています。

これまで何度も、人々が自分の「色」を見出す必要性について話すのを僕は聞いてきた。それは他者から自分を切り離す手段としてではない。むしろもっと、信頼できるつながりの手段としてだ。世界は時に言葉ではとらえにくいパラドックスに満ちている。自他の区別や自己完結への欲求を手放すことができたとき、我々は我々自身のユニークな自己に出会うことがある。自分らしさというものが、他者とのつながりの中から生じるのだ。

この言葉に感銘を受けて、次の記事を書きました。 → Co-Creation(共創)によって自分を輝かせる「森」を作る
 

並列する旧いものと新しいもの

ボブさんは、災害後の社会は、次の典型的な三段階を通ることが多いと言います。

1)緊急事態と救出

2)レジリエンス

3)長い道のり

「反転授業の研究」は、レジリエンスの段階で生まれました。
 

人々が集まりはじめ、変化を起こすためにそれぞれの知識や資源を持ち寄り利用する。誰もが参画する

ボブさんは、2013年末から2014年はじめにこのような動きが日本各地で生まれていたと言います。僕たちも、まさにそのような動きの中で生まれてきた活動の一つだったのだと思います。
 

ボブさんがこの本の中で示してくれた図が、僕たちの現在地を把握するのにとても役立ちました。

変容のパターン

20世紀のパラダイムはピークを過ぎて下り坂に入ったときに311が起こりました。
 
それをきっかけに旧世界のパラダイムに別れを告げた人たちが現れ、お互いに磁石で引き寄せられるように集まりはじめ、新しいことを始めました。僕も、まさにその中の一人でした。
 
オープンでフラットな関係を土台にして「多様性をもった森」を育て、そこでの実りを収穫して分かち合っていくことをビジョンに掲げたところ、毎月、100名以上を超える人たちがグループに参加してくれるようになりました。その増加のペースは今でも止まっておらず、増え続けています。
 
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そこでの体験を通して、「共創するためにはどうすればいいのか」という知恵が、少しずつ蓄積して、共有されてきました。

個々のビジョンが共鳴して、共有ビジョンに近いものが生まれつつあります。
 
僕たちのコミュニティは、ボブさんの図でいうと、旧パラダイムと新パラダイムの間の橋が架かる手前の状況にいるのではないかと思います。

未来を創ろうとしている皆さん、繋がりましょう!

 
この本を読んで、僕たちがやってきたことを大きな流れの中の1つとして位置づけることができました。
 
そして、同じようなビジョンを持って自己組織化している多くのまだ出会っていないコミュニティが存在するということに気づきました。
 
それらと出会うために、「反転授業の研究」の物語を語っていきます。
 
 → 「反転授業の研究」の物語はこちらから順に読むことができます。

他のコミュニティの物語も聴きたいです。

コミュニティ同士が出会うことで、次のレベルの自己組織化が起こり、それが社会変容へと繋がっていくという道筋が、ボブさんのおかげではっきりと見えました。

ボブさんの本は、日本に散在している新しい未来を創るコミュニティに地図を与え、それらを結び付けるものになるはずです。
 
未来を創るために動いているみなさん、繋がりましょう。

ボブさんの声も、ぜひ、聞いてみてください。

TEDxTokyo スティルガー、バーニグ 15/15/10 日本語

英語版はこちら

Learning Resilience

 

小林昭文さんの『アクティブラーニング入門』を読んで

アクティブラーニングの実践者であり、伝道者である小林昭文さんの著書『アクティブラーニング入門』を読みました。

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小林さんと出会って、アクティブラーニングに目覚め、小林さんのやり方を参考に実践を積んできた僕としては、改めて自分がやってきたことを理論的な枠組みの中で位置づけるよい機会となりました。

小林さんとの出会い

小林さんとの出会ったきっかけは、僕が反転授業のやり方を模索していた2013年の夏、小林さんのブログ

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を見つけたことでした。そこに書いてあったメールアドレスにメールを送り、スカイプでお話をすることができました。

さらに、小林さんが「反転授業の研究」に参加して下さることになりました。

小林さんのブログには、日本の教育システムが工業化社会の労働者を育成するためにどのように機能しているのか、学校教育の中の様々な「ヒドゥンカリキュラム」が、従順で忍耐強い労働者育成にどのように関わっているのかということが分かりやすく書いてあり、21世紀の知識基盤型社会においては、誰もが自分で考えていくことが必要で、21世紀に生きていく力をつけるためにアクティブラーニングが必要なのだと主張していました。

それまで予備校で物理を教えてきた僕は、そのようなことを考えてこなかったので、大きな衝撃を受けました。同時に、自分自身の中にも日本の教育を受けてきた中で刷り込まれたマインドセットがあり、その存在を明らかにしていくことで、マインドセットを変えて、自分をもっと自由にしていきたいと思いました。

アクティブラーニングや反転授業に取り組む本当の意味を理解したことで、この活動に対する軸が定まり、それが、今の活動へと繋がっています。

小林さんとの出会いは、「反転授業の研究」の活動の起爆剤にもなりました。第1回のオンライン勉強会で、

小林昭文さん(産業能率大学教授)

横山北斗さん(関東第一高校教諭)

芝池宗克さん(近大附属高校教諭)

の3人にお話しいただくことにして準備を進めていたところ、佐賀の武雄市での反転授業が始まり、NHKなどで「反転授業」が報道されたことで、オンライン勉強会に110名の方が参加して下さいました。それをきっかけに、活動が盛り上がり、2年たった今では3000名を超える活動的なグループへと成長しました。

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とりあえず真似しやすい「小林流」アクティブラーニング

小林さんのアクティブラーニングの方法の特徴として、「とりあえず真似しやすい」という点が挙げられると思います。

それは、授業形式がいつも一緒で、その形式の中のいくつかの要素が、どのような役割をしているのかを明確にしてくれているからです。

第2章 AL型物理授業の概要

で図示しているように、小林さんの授業構成は次のようになっています。

①学習内容の説明(15分間)

(1)パワーポイント&プリント配布

(2)インタラクティブ・インストラクション

②問題演習(35分間)

(1)問題と解答・解説プリントを配布

(2)ピア・ラーニング

③振り返り(15分間)

(1)確認テスト

(2)相互採点

(3)リフレクション・カード記入

授業の最初には、必ず次のことを確認します。

目的 ・・ 科学者になること

目標 ・・ 科学的対話力の向上

態度目標(ルール) ・・ しゃべる、質問する、説明する、動く(立ち歩く)、チームで協力する、チームに貢献する

僕の実践は、小林さんのやり方を真似するところから始まりました。

最初は、それぞれの要素がどのような意味を持つのか、なぜ必要なのか腹落ちしないままで進めていったのですが、そうするとうまくいったり、いかなかったりしました。

自分なりにアレンジして、目的、目標、態度目標を、毎回言わなくてもいいだろうと思って省略したりもしました。
 
しかし、その頃読んでいたワールドカフェの本に、場を創る上でグランドルールが重要だということが強調されていたのを読んで、

「あぁ、目的、目標、態度目標は、対話におけるグランドルールの役割を果たしていて、教師が権威をふるって生徒をコントロールする代わりに、グランドルールがあることで授業が成り立つ仕組みになっているんだ」

と気づきました。

グランドルールの重要性に気づいたことによって、それ以降、グランドルールの確認を省略することは無くなり、グランドルールの設定の仕方を自分なりに工夫するようになりました。
 
こんな感じで、実際にやってみて、失敗して、気づいて、それぞれの要素の意味や機能についての理解が少しずつ深まっていったという感じです。

小林さんの授業の構造は、長年の実戦によって実践的に生み出されているものなので、それぞれの要素に意味があって、そのような形になるまでの試行錯誤の歴史が背後に蓄積しています。

それは、すぐには分からないのですが、自分が実践をしながら、各要素の意味を考えていくと、自分の理解度に応じて、後からじわじわと理解が深まっていく感覚があります。

小林さんの授業を変えた3つの感想

「先生に教えてもらうよりも自分で分かる方がうれしい」

「友達になら質問できる」

「友達に教えるともっとよく分かる」

は、僕の授業でも出てきました。

自分の生徒から聞くと、大きなインパクトがありました。それによって、自分の中での確信が深まり、この3つの活動がもっと活発になるようにするにはどうしたらよいのだろうかという工夫が始まりました。

今回、何かヒントはないかと思って、この本を読むと、ちゃんとヒントが書いてあるのです。

この本は、自分の理解度に応じて、様々なものを返してくれる本なので、一度読んで終わりというタイプのものではなく、傍らにおいて、時々読み返していくような本だと思いました。

 

授業改善の意義と背景

第3章では、スタンフォード大学メディカルスクールの「講義は時間の浪費ではないか?」という意見が紹介されていました。

小林さんは、「生徒同士の話し合いの時間」を確保するために、パワーポイントのスライドで説明時間を15分に収め、プリントを配って板書を書き写す時間をゼロにしてきたので、この意見に賛成だと書いてありました。

長年、予備校講師として講義を「商品」として生活してきた僕にとって、それが時間の浪費であるということを認めるのは、数年前であれば難しかったかもしれませんが、講義を動画化し、アクティブラーニング型の授業を実践してきた今となれば、知識のインストールは動画で行ったほうが合理的だなと感じています。

反転授業は、小林さんがパワーポイントを使って15分間で行ってきた説明を、動画によって授業時間外に出して、さらに「生徒による話し合いの時間」を増やそうという試みです。

それらは、「生徒による話し合いの時間」に最も大きな価値を置くという点で、同じ考えに基づいています。

反転授業では、教師の役割が、「壇上の賢人」から「学習者に寄り添う導き手」へと変化します。

生徒が教師の顔色をうかがっていては、生徒が主体的に学ぶことが難しくなります。そこで、教師が権威を手放して、関係性をフラットにしていく必要があります。しかし、教師が一方的に説明し、生徒が黙って話を聞くという関係は、教師が生徒を上からコントロールしていくという関係性と結びつきやすいわけです。

アクティブラーニングが機能するために、「教師が権威を手放す」というのは大きなカギを握っていて、反転授業では、講義を動画にするというのは、知識のインストールと権威とを切り離すという効果を持ちます。

小林さんは、パワーポイントとプロジェクターを使い始めたときにリモコン付きのプロジェクターを使っていて、これによって自動的に「教壇から降りた」のだそうです。その結果、生徒たちとフラットで対等な関係に近づくことができたのだそうです。

小林さんが、「生徒たちとのフラットな関係」ということを大事にしていたということを読んで、改めて、反転授業におけるグランドルールと動画の役割を見直すことができました。

 

アクティブラーニング型授業の始め方

第4章 アクティブラーニング型授業の始め方 を読んで、小林さんが4種類の研修会プログラムを開発していたということを初めて知りました。

A 入門講座 = 始めるきっかけを作る

B 技術向上講座 = 授業の質を上げる

C 組織開発講座 = 組織的に取り組む方法を知る

D アクションラーニング研修 = 個人の学習力を高め、学習する組織を作る。新しい概念に基づくリーダーシップ・スキルのトレーニング

 

実は、昨年、「反転授業の研究」が運営、小林さんが講師で「アクティブラーニング実践者のためのスキルアップ講座」というワークショップ型のオンライン講座を実施しました。

この本を読んで、それが、

B 技術向上講座 = 授業の質を上げる

の研修会をオンラインで実施したものだったのだということを、今回、知ることができました。

ということは、まだまだ、A、C、Dが残っているぞ!ということで、ワクワクしました。

小林さんの活動を拝見していて、いつも思うのは、実践と理論のバランスの良さです。

理論に現実を当てはめていくのではなく、まずは、実践で試行錯誤を行い、そこで生まれた気づきをもとに、さらに発展させていくために理論にヒントを求めていき、そのヒントをもとに実践していくというサイクルが、そのバランスの良さを支えていると感じていました。

今回、「コルブの経験学習モデル」のことを知り、謎が解けたような気がしました。

能動的な試み → 具体的な経験 → 内省的な観察 → 抽象的な概念化 → (再び能動的な試み)

というサイクルを回していくことが「学習」であり、その継続が「成長」だというのです。

小林さんの実践は、生徒の頭の中でこの学習サイクルが回りだすようにするのと同時に、小林さん自身の中でも同じサイクルが回り、授業に対する理解が深まっていくというものなのではないかと思いました。

コルブの経験学習のサイクルを回すという具体的なイメージを持ち、それを中心に据えることで、授業の工夫がしやすくなると感じました。

安心安全の場つくりの重要性については、この2年間、失敗を通していろんなことを体験的に学んできました。

・自己紹介の重要性

・穏やかに話すことの重要性

・年齢や性別にかかわらずフラットな関係性を確保すること

などが本当に重要だなーと感じていていたところ、小林さんの本の中でもこれらが登場し、やってきたことは間違っていなかったのだと確認することができました。

 

「科学者になる」との対話

第5章では、小林さんの高校物理の実践が具体的に紹介されています。

物理以外の授業にも応用が利く、一般的な工夫が散りばめられていて、まさにノウハウの宝庫になっています。

アクティブラーニングを実践し始めた人が、この章を読むと、そのときの理解度に応じて、いろんなヒントが得られると思います。

僕も、授業実践でヒントがほしいときは、第5章を中心に読み直すつもりです。

 

小林さんの実践を真似てアクティブラーニング型の授業を始めたときに、「科学者になる」という目標が、どうもしっくりきませんでした。

それで、この目標を自分の授業に掲げることができませんでした。自分の中で消化できなかったものを、生徒に掲示することが出来なかったのです。

でも、それから2年間、ずっとこれが気になっていて、「どう捉えたらよいのだろうか?」ということを、折に触れて自問自答していました。

理解を深める1つのきっかけになったのは、立命館守山高校の倉本龍さんに「科学史を学ぶ意味」というテーマでイベントをやっていただいたことです。

倉本さんは、やはり、「科学者になる」ということを掲げていて、

「科学者になるためには、科学者の思考を知る必要があるから、歴史を学ぶことが大切だ。」

「科学者の思考ができれば、問題だって解けるはずだ。」

ということをおっしゃっていました。

これを聞いて、受験勉強に動機づけられている生徒に対して、「科学者になる」という目標を掲げる1つのきっかけを得られたと思いました。

今回、『アクティブラーニング入門』を読んで、さらに大きな気づきがありました。

このように書いてありました。

ここでいう「科学者」とは職業のことではありません。科学的な考える力を持った大人になって欲しいという願いです。

では科学者は何をしているでしょうか?

(中略)

分からないことを本などで調べる

他の科学者に質問する

難しいことを分かりやすく人に教える

入門的な講義をする

チームで研究する

世界中の科学者と協力する

だから・・・

私たちもこれを見習いましょう!

科学者がやっていることを授業中にやりましょう。

それを通して物理の知識を身につけましょう。

これを読んで、小林さんが、どのような思いで「科学者になろう」を目的に掲げているのかがようやく分かりました。

キャリア教育、生きていく力を育てることと、授業とがどのように結びついているのか、疑問が氷解しました。

教育や授業について、様々なことを考えて、試行錯誤した末にたどり着いた結論を、「科学者になろう」という一言に象徴させているのだということが分かりました。

僕が、同じ言葉を使うかどうかは分かりませんが、このくらいパワフルな言葉を目的として掲げたいです。

教師が上に立つのではなく、生徒と教師が共通のビジョン「科学者になろう」を掲げることで、いっしょに協力していくことができるのだと思いました。

 

質問による介入

小林さんのファシリテーションの特徴の1つが、「質問による介入」だと思います。

この方法を知ったとき、ちょうどワールドカフェについて学んでいて、「パワフルな問いを作るためにはどうしたらよいか?」ということを考えていたため、質問をすることって大事だけど、難しいなと感じました。

オンライン講座の準備実験として、オンラインで小林さんをコーチとしたアクションラーニング(質問会議)を実施してもらい、この方法が、気づきを促す質問によって、心の奥を掘り下げていくことができるのと同時に、質問スキルを磨くことができるすばらしい方法だと感じました。

それ以来、質問による介入を、試行錯誤しながら取り入れているのですが、 グループワークについて③「質問による介入」の効果 の節を読んで、大きな気づきがありました。

それは、コルブの経験学習モデルにおいて振り返りのきっかけを作るのが質問だということです。

教師が、生徒の頭の中の学習サイクルをイメージしていて、サイクルが止まっているときに「質問による介入」を行って、「体験する」→「振り返る」とステップを1つ進めて、学習サイクルを回してあげることができるのだということが分かりました。

これも、学習サイクルのイメージが土台にあるからこそ、適切なタイミングで、適切な効果を生み出せるのではないかと思います。

 

振り返りのタイミングで『アクティブラーニング入門』を読む

この本を手に取る人の多くは、教師なのではないかと思います。

一度、この本を読んだら、部分的でも、5分間でもいいから、何かのチャレンジをしてみるとよいと思います。

僕も、5分間だけ学び合いの要素を授業に入れたことがきっかけでした。

体験をしたら、もう一度、この本を読んで振り返ってみてください。多くのことに気づくと思います。

そしたら、その気づきをもとに、もう一度計画して、チャレンジしてみてください。

僕たちも、コルブの学習サイクル

体験する → 振り返る → 気づく → 再計画する → 再び体験する

を回しながら学んでいきましょう。

この本は、振り返りをするときに、傍らにおいておくのに最適です。

そのとき、そのときで、異なる顔を見せて、何かを気づかせてくれると思います。

 

【書評】反転授業が変える教育の未来

「反転授業の研究」の田原真人です。

今日は、1冊の本を紹介したいと思います。

反転授業の実践のフロントランナーである近大附属高校の芝池宗克さん(数学)と、中西洋介さん(英語)による『反転授業が変える教育の未来』が発売されました。

 

著者の一人である芝池さんには、第1回反転授業オンライン勉強会に登壇していただいたこともあり、「反転授業の研究」の大阪オフ会で芝池さんから直接、この本をいただきました。

この本のタイトルを見たときに、著者のお二人の覚悟みたいなものを感じました。

なかなか、こんなタイトルをつけられないです。

小細工なしで、一番大切な部分に突き進むようなタイトルですよね。

ここに込められている思いを、僕なりに解釈すると、

 

自分たちは、どんな「教育の未来」を思い描いているのか。

反転授業は、なぜ、教育を変えることができるのか。

自分たちは、その未来を実現するために、どのように行動しているのか。

 

という3つだと思います。

 

未来を語るということは、言い方を変えれば、信念を語るということだと思います。

芝池さんも、中西さんも、すごい熱量で信念を語っています。

「反転授業」という話題のキーワードで、この本を手に取った人にとっては、その圧倒的な熱量にびっくりするのではないでしょうか。

2人の教師が、存在をかけて社会に打ち込んだ弾丸・・・・そんな本だと思いました。

内容を、順に見ていきましょう。

目次は、次のようになっています。

 

第I部 反転授業を始める前に≪準備編≫

第1章 反転授業とは

第2章 反転授業の動画の種類

第3章 反転授業で授業はどう変わるのか

第4章 反転授業はあくまで手段である

第5章 反転授業は何を目指すのか

第Ⅱ部 反転授業の実際≪実践編≫

第6章 英語の反転授業でできること

第7章 数学の反転授業でできること

第Ⅲ部 反転授業で変わる教師の役割

第8章 ICT時代においては教師の存在意義が問われる

第9章 ICT時代における学校の未来、教師の未来、教育の未来

第Ⅳ部 反転授業のためのQ&A

 

赤で書いた部分は、著者のお二人の信念が、特ににじみ出ている箇所です。

第4章では、学力をつける3要素について説明しています。

①心的態度(Mindset)

②方法(Method)

③時間(Time)

というMMTの3つを揃えることに意識を向けることで、偏差値や、テストの結果ではなく、学習の課程に目を向けることの大切さを強調しています。

ここで、注目したいのが、①心的態度(Mindset) を取り上げていることです。

実は、僕自身も著者のお二人と同じ時期(2013年)から反転授業に取り組んでいるのですが、たどり着いた結論が「マインドセットをGrowth Mindsetに変えていくことが欠かせない」というものでした。そこで、「21世紀マインドセット」というメール講座を始めました。

お二人が、同じ結論に到達していることを知り、勇気づけられました。

この本は、マインドセットをどうやって構築していくのかというところにも踏み込みます。

そして、「教師と生徒がともに希望を持つこと」が大切だと言います。

これは、ちょっと言葉足らずで、一般には伝わりにくいかもしれません。でも、僕には、ビンビンに伝わりました。ジワジワ来ました。

著者は、「教師が生徒のマインドセットを変える」とは言っていないんです。

これが、本当に大切なポイントだと思います。

教師は、多くの場合、管理と放任のジレンマに陥ります。生徒の進学実績を上げなくてはいけないというプレッシャーに晒されると生徒を管理したくなります。でも一方で、単に放任すると授業が崩壊します。

生徒は、受動的に学ぶのに慣れていて、マニュアルや答を欲しがり、自分で学べと言われるとどうしたらよいのか分からなくなって教師に不満を持ちます。

この悪循環から抜け出すために必要なのは、「教師と生徒がともに希望を持つこと」だと思います。

教師が怖れから管理に走るのではなく、生徒を信じて自由を与える。

生徒も怖れから答を求めるのではなく、教師を信じてチャレンジする。

このとき、希望のサイクルが回り始めて、本当の意味での「学び」が生まれるんだと思います。

反転授業やアクティブラーニングの実践者が、一番苦労しているところでもあり、目指しているところは、まさにここだと思います。

 

第5章 反転授業は何を目指すのか では、目指しているものとして、以下の2つを挙げています。

・協働学習を通して「生きる力を育む」こと

・偏差値に対して、生きる力の礎となる「体験値を上げる」こと

そして、生きる力の要素として、

(1)自分自身を鍛える部分

(2)他人と強調・協働する部分

の2つを上げ、T字型で表しています。

この本は、教育の目的について、本当にぶれていません。

清々しいほどに、言い切る態度に感動します。

 

なぜ、このようなことを教育の目的に据えるべきなのかということについて、第8章でさらに踏み込んでいきます。

この踏み込みの鋭さも、この本の最大の魅力です。

現在の学校モデルが、「工場モデルの学校」であることを、こんなにはっきりと書いてくれていることに拍手を送りたいです。

一部引用します。

それは、例えば工場で9時から5時まで働き、上司からの指示に従う工場労働者たちのように、学校でも生徒にある一定の時間の拘束をし、教師の指示に従順に従う訓練を課す役割を学校が担うことを示す表現です。

さらに、現在の社会状況についての詳しい分析と、その中でどのような人材が求められているのかについての分析が続きます。

豊富な資料の引用から、お二人が、世界の動きに、常にアンテナを張り巡らせて、教育のあり方を根本から考え直していこうとしていることが伝わってきます。

教師自らが変わらなければならないという姿勢は、次の言葉から強く伝わってきます。

変化の激しい今日の時代の波を乗り切るためには、教師としての根本的な問題に立ち返り、その答えを見つける努力を続けながらも、時代に合わせた技能を身につけることが必要になってきます。

第8章の最後に出てくる「教えることを通じて生徒から何を学ぶのか」という言葉に、お二人の姿勢が表れていると思います。そして、そのような姿勢で学びながら教えている教師の背中だけが、生徒の主体的な学びを促すことを可能にするのだと思います。

第9章では、学校の未来、教師の未来、教育の未来について考えていきます。

ここでも、豊富な資料を引用しながら、おもいきった予想を展開していきます。

世界を、現実世界、仮想世界、知的・感情世界の重なりとして捉え、知的・感情世界においてメタ認知を発達させていくことが大切だという意見には、大賛成です。

オンライン学習が発達し、現実世界での学びに対して、仮想世界での学びの割合が増加していくにつれて、現実世界での教師の役割が縮小していくという分析はさすがです。しかし、それは、旧来の役割が縮小していくということであり、新たな役割が生まれてくるはずです。どのような役割が生まれてくるのかは、芝池さんや中西さんのようなアンテナを張り巡らせた教師たちによって発見されていくことでしょう。

 

最後に教育の未来について触れる中で、21世紀の人材育成に戻ります。

ここで、大きな気づきがありました。

手段と目的を間違えちゃいけない。

21世紀の人材育成が目的で、反転授業はそのための手段であるというロジックをさらに拡張すると、

21世紀の人材育成が目的で、学校はそのための手段である・・・ということになります。

このような表現は、本の中にはありませんが、目的に応じて、学校も、教師も、形を変えていくべきだという信念が貫かれていると感じました。

聖域を作らずに、真摯に問題を掘り下げていく姿には、拍手を送らざるを得ません。

 

この本は、口当たりの良い、当たり障りのない表現に慣れている人にとっては、刺激が強い本です。

しかし、教育が直面している問題に対して意識を共有している人にとっては、「よくぞ書いてくれた」と勇気づけられる本です。

芝池さん、中西さん、僕も同じ方向を向いて進んでいきますよ。