『生きるための論語』からAL型授業の本質を学ぶ

反転授業の研究の田原真人です。

私たちは、なぜ、アクティブラーニング型授業や反転授業を行うのでしょうか?

「知識基盤型社会に必要な21世紀スキルを身につけるため」という説明がされることもありますが、私は、この説明に違和感を感じます。

私が、問い直したいのは、学力テストによる序列化、社会的地位による序列化を外発的動機付けに使われることで学習回路が阻害されてしまうという仕組みです。

そのように条件つけられた環境の下では、生徒は、疑問を感じたり、深く考えることを止め、丸暗記したり、反復練習したりする方が、短期間で高得点を取れるということを学んでいくのです。

この学習回路が阻害される仕組みを維持したまま、「21世紀スキル」を移植しても、それが、新たな序列化の要素になるだけです。

どのようにすれば、生徒が自分で考え、主体的に学ぶような環境を作ることができるのか?

そのような環境において、教師の果たす役割は何か?

自分で考え、主体的に学ぶ生徒たちが増えたとき、組織や社会はどうなっていくのか?

そんな問いを心に抱いて、活動をしてきましたが、この問いに対して、大きなヒントになる書籍と出会いました。

それが、安冨渉著 『生きるための論語』です。

 

君子は周辺の小人を感化して学習回路を開く

私自身には、論語を読み解ける素養がないので、以下のことは、安冨さんの論語解釈を読んで、そこから感じたことであることを、最初にお断りしておきます。

安冨さんは、論語における「学習」を、次のように解読します。

「学」という段階では、受け取ったものが何なのか、学ぶ者にはまだ意識化されていない。より正確に言えば、細部に意識が集中してしまうことによって、全体が無意識化されてしまっている。ここには余計なものが染みこんでおり、この行為によって魂は多かれ少なかれ、呪縛されている。

それがある時、「習」によって完全に身体化される。すなわち、細部が身体化され、無意識化されることによって、逆に全体が意識化され、「ああこれか」と分かるのである。そうなることによって、不必要なもの、余計なものは排除される。こうして呪縛から抜け出したときに、人は学んだことを自由に駆使できるようになり、喜びを感じる。

私が、今の教育システムに対して感じている違和感は、安冨さんの言葉を借りると、「学」により魂が呪縛された状態を生み出すことに重点が置かれ、「習」により呪縛から抜け出して、無駄なものを自ら選んで捨てることで主体性を確立することがおろそかになっているのではないかということになります。

では、「学」と「習」とが十分に作動するためには、どのような構えであれば良いのでしょうか?

安冨さんは、それを、君子と小人の対比によって説明します。

君子:学習回路が開いている人。自分を常にモニタリングして、人の言うことに耳を傾け、自分の間違いに気づいたら、直ちに受け入れ、更に自分の行動を改める。

小人:学習回路が閉じている人。自分の過失を認めてしまうと、全人格を否定されたように感じるため、言い訳をし、行動を修正できない。

君子の在り方は、経験学習サイクルを回すことが身についている人の在り方に似ていると感じました。

kolb

自分の行動を真摯に振り返り、間違いに気づいたら直ちに修正していくという在り方が君子なら、学習者が経験学習サイクルを回せるように支援していくアクティブラーニングは、いわば、「君子を育てる教育」なのではないでしょうか。

しかし、人間は、周りの影響で君子にも小人にもなり得る存在だと思います。小人の在り方をしている人は、どのようにして君子へと変わっていくのでしょうか?

それに対して、安冨さんは、次のように述べます。

君子がいれば、周辺の小人は感化されて学習回路を開く。

この言葉は、私たちが対話を重ねる中で出会った「LearningがLearningを促す」「学び続ける教師が、生徒の主体的な学びを促す」という言葉と重なるものだと思います。

教師が君子として振る舞い、教室の生徒たちの学習回路を開き、生徒たちを君子へと導いていくというのが、私たちの目指すアクティブラーニングや反転授業だと考えると、すっと腹落ちする感覚がありました。
 
実際、反転授業の研究の活動を通して出会った、小林昭文さん、下町壽男さん、和田美千代さん、江藤由布さんなどアクティブラーニングのトップランナーたちは、常に学び続けながら、自分の心と繋がった率直な言葉を発信しています。そして、その在り方に周りが感化されて、学習回路が回り、変容の連鎖が起こっています。

君子による呪縛なき秩序形成

安冨さんによると、孔子は、君子による学習に基づいた社会秩序を考えていたのだそうです。

それが、どのようなものなのか、コミュニケーションと学習の関係から考えていきます。

まずは、小人が集まった社会に生まれる秩序について考えてみましょう。

小人は、学習回路が閉じていて、自分の行動を修正しないので、相手との違いを無視し、同じものを共有しているという思い込みを形成します。これを、「同」と呼ぶのだそうです。

この延長線上に生まれるのが、共同体への帰属意識の形成により、お互いに呪縛し合う秩序です。

学習回路が閉じている小人は、学んだことによって魂が呪縛されている状態から、「習」によって抜け出すことができずに、他人の地平で生きる「魂が植民地化された状態」になっていきます。

言い方を変えれば、小人であふれている社会は、少数の権力者に支配されやすい状況だということになります。

一方、君子は、学習回路が開いているので、コミュニケーションを通して発生する相互の違いを学び合いのエネルギーに変えて学習回路を回していきます。お互いが自分の心に忠実に従って言葉を交わすことで、一時的に紛糾する状態である「乱」になりますが、それを途中経過として、尊重のある動的な調和状態である「和」に達します。

君子は、学習回路の正常な作動を守り抜き、自分の地平で生きるので、他人からの支配を受けにくく、自分たちの活動によって調和を生み出そうとします。

私たちは、オンライン講座を運営するときに、安心安全の場を創り、心を開いて対話していくと、しばしばカオスに陥り、その先に一体感のあるチームが生まれるというプロセスを何度も体験しました。それぞれが、お互いを尊重し合いながら、自由にコミットメントしていくと、場にエネルギーが流れ、個の能力の足し合わせ以上の成果をチームで達成することができました。それが、「和」の状態なのだと考えると納得がいきます。

「和」が達成されると、安心感と幸福感を感じられるようになり、よりいっそう、場に対して自分を投げ出していくことができるようになります。

私は、アクティブラーニングや反転授業で目指すものは、学習者に、この「和」を体験させることなのではないかと思います。

学んだことを、自分の中で消化して、余計なものを捨て去って身体知として身につけることで個性が磨かれていき、自分自身と繋がりながらコミュニケーションを取ることで「乱」を超えて「和」へ至るという体験こそが、未来を創る能力を育成すると思うのです。

私たちが、2013年に反転授業の研究を始めたとき、私たち自身がグループワークや対話などの経験を十分に持っていないことを自覚し、オンラインでの学び合いを通して体現することを目指してきました。オンラインの学び合いによって教師が主体的に学ぶことではじめて、教室での生徒の主体的な学びを促すことができると考えたのです。

試行錯誤をしながら、学び合いのオンライン講座を続けていく中で、受講者だった和田美千代さんから、「この豊かな場は、まさにネット果樹園だ」という言葉をいただき、オンラインに「和」を体現することができたと感じました。

そのとき、「この体験を広めていけばいいのだ」という強い確信が生まれました。そして、実際に、体験を共有した人たちが、教室の実践に生かしてくれるようになってきました。

安冨さんの『生きていくための論語』を読み、私たちが進む方向が間違っていなかったのだと大変勇気づけられました。

アクティブラーニングという言葉が、現在、急速に広がり、アクティブラーニングという授業形式を取り入れようとしている教師も増えています。

しかし、重要なのは形式ではありません。

教師自体が学習回路を開き、常に周りのすべてから学んでいるときに、それに感化された生徒たちも学習回路を開き、教師の率直なフィードバックを頼りに学習回路を回し、グループ学習の中で「和」を体験するということが重要なのだと思います。

そのような体験をした生徒たちが、社会に出て、自分の心と言葉とを一致させ、「乱」の状態になることを恐れずに君子として行動していってくれるはずです。それが、調和のとれた社会秩序を形成することに繋がっていくことでしょう。

私たちの多くは、社会秩序というものは、法律や規範によって作られているものだという幻想の中で生きています。

小人は規範に従って「同」になりますが、君子は自らの心に従い、魂の作動を頼りに行動します。

生徒たちの魂の作動を押さえ込み、学力テストによる序列化によって適応行動へと誘導していく教育は、小人を生み出していく結果を生み出しているのではないでしょうか。

私たちを取り巻く社会秩序は、小人の在り方が広がっていることによって維持されているように思います。

より調和の取れた社会を作るために、教育の世界で私たちができることは、まず自分たちが君子の在り方を体現し、生徒を感化することによって、世の中に君子を増やしていくことなのではないかということを、安冨さんの本を読んで感じました。

 

コメントは受け付けていません。

サブコンテンツ

このページの先頭へ